2004年01月14日

告知に至る道:1

「形が変になってきた」「乳首が陥没している」「いつでも痛い」

… そう言うと、お隣の先生はすぐに専門医に診せたほうがいいと紹介状を書いてくれた。先生のその反応で、「ああ、この間と違って、マジでヤバそう…」と判る。しかし、紹介状は「外科」だった。「乳」なのに、交通事故の怪我を扱うお医者と一緒?と、ちょっと奇妙な感じがした。

市立病院の「外科」の先生が触診。今までの経過を話すと、カナダの医師が触診しかしなかったという事に非常に憤慨し、「だって、これ、ガンだよ。どう考えてもガンだよ、ガン。全然『悪い物じゃない』なんかじゃないよ。だって、ガンでないとリンパの腫れとか説明できないしね!」…と、いきなし「ガン」を思いっきり連発。 

「そうか、やっぱり、ガンだったのか、やっぱカナダっていい加減なんだよな。まともなところもあるんだけどねえ、どこか抜けててダメなんだよねえ」との自説を裏付ける事実に納得し、先生の力説に頷く。

どいつもこいつも、ガンじゃないって言って。ハハハ、勝った。私が勝ったんだ(ナニが?)。…と、ささやかな満足感すら覚え……ている場合ではなく、「あれ、もしかして、これってガン告知?」と気付く。しかし、こんなに唐突に?しかも、もっと深刻でなくて、いいの? おまけに、問診と触診だけで? ガン告知って、

「あなたはガンです」
「ガーン」(顔面蒼白、背景黒フラッシュ)

というような古いギャグもあったが、あんな感じで、もっと「神聖」な物じゃないのか?と謎は深まる。

「注射は大袈裟だけど、針は小さいから心配しないで」、との先生の慰め(?)と、献血常習者で太い注射に慣れていたので、組織検査用ガチャガチャする謎の巨大注射器を見ても、別に緊張もなかった。針を乳のしこりに刺して少し細胞を取るらしい。 しかも、私の場合は乳の殆どがシコリなので、どこに刺してもオッケー状態。ガン細胞だと、針が入っていく感じが固くてジョリジョリするのだそう。私のは、結構柔らかいらしい。まあ、チクリとする程度。しかし、数日間、その部分が青黄色く変色して気持ち悪かった。その日の午後、マンモグラフィーとエコーを手配してもらう。結果が金曜日に判るのでまた来てくれと言われる。

次の検査を待つ間、ランチを病院内のレストランで食べた。市内にある有名なレストランが出店しているので、味がいいと聞いていた。以前、父が入院していた頃、一度だけ母と訪れたが、「病院のレストランにしては、まあマシ」という程度だった。今回も、そう思った。ランチと別にミルクティーを頼んだのに、間違いでホットミルクが運ばれてくる。「母乳」を連想した。この歳で本当に乳がんだったら、おそらく私は、もう子供を作る事もないし、赤ん坊に自分の胸から乳をやる事も、もう絶対にないんだなあ、としみじみ考えた。

私は子供好きだ。子供が欲しいとずっと願っていた。しかし、仕事、遊び、勉強、研究、さらに介護で先延ばしにしてきて中年になってしまった。しかも、旦那は別に欲しくないので、必要なのはタネだけというのが問題だった。 「タネだけくれ」と、遺伝子が良さそうな何人かにカナダでも頼んだのだが、「そんな無責任な事はできない」と却下され、プランは実行されなかった。ああ、そろそろ物理的に不可能になってしまうから、今年こそ実行しようと思っていたのに、このまま一生できないのか…。いや、待てよ。私がこの歳でガンって事は、立派なガン遺伝子の持ち主なのだから、子供がガン血統になっちゃうのか?それって、可哀想じゃないだろうか?いや、そんなこと考えても、とにかく、もう金輪際、生殖が不可能になったのだよ…と、そういうベクトルに思いが至ると、何だか物悲しく、おセンチさんな気分になってきた。

そこで判明したのだが、「もう~できなくなっちゃうのね」というネガティブなベクトルの考えが、特に患者の涙腺を刺激するように思える。 そこから、

「ああ、可哀想な私、まだ大年寄りって訳でもないのに」

「どうして私だけが?」

「まだ、あれもこれも、やりたい事はたくさんあるのに」

「なのに、もうできなくなっちゃうの?」

「ビエ~ン」

という無限ループに突入するので、この思考パターンは止めるべきだ。こんな所で泣いて、何かマシになるならいくらでも泣くけど、事態は泣いても変わらない。だったら、そのパワーや時間は、事態を変える何か、もしくは自分を幸せにする何かに対して費やされるべきだ。まあ、泣いてストレスを発散するタイプの人だったら、もしかしたらこの思考パターン→「悲劇のヒロイン無限ループ」も有益かもしれないが、私は違うので無駄だ。

同じレストランで、一年ほど前、父の入院時の主治医だった先生がランチを食べていた。もし、あの頃、お金や時間を惜しんで検査をサボらないで、きちんと診てもらっていたら? そうだよ。もし、ちゃんと検査受けていたら、こんな事にはならなかったかもしれないのに。

もし、もし、もし…。ああ、人はこうやって、自分が進まなかった選択肢について、後になってからグダグダと思い遡るのね…。そうして、ああすれば良かったとか、こうすれば良かったとか、過去視点からの「絶対に実現するはずのなかった未来」に思いを馳せ、あげく嘆いたりするイキモノなのね…。ええ、例外でなく、わたくしもなのね…。ところで、このような「If...」という観念があるのが人間のアカシだと聞いた事があるが、果たして本当なのだろうか? ってか、人間以外の動物は、本能的な衝動と習慣の累積によって行動が決定されるだけなんじゃないの? だったら、「If」どころか、「観念」ってのがあるのかどうか…? と、どうでもいい事を考え始めてキリなく没頭し、もうちょっとで検査に遅刻する。

午後の検査は、まずエコー。 
待合所では、なぜか幼児(4~5歳)が叫んでいた。私の観察によると、スーパーや電車内など、公共の場所でこのように奇声をあげているのは98%の確率で男子だ。その子供は、やはり、男子だった。男の子というのは、元々叫び易い性質のDNAがあるのか?それとも、男の子の母親全員が、公共の場所での叫びは元気で良い行動だと信じ、そのように積極的に躾けているのか?それとも、日頃男の子はもっと煩いので、男子母親は煩さに耐性ができてしまい、「これくらい静か」と認識しているので放置しているのか?それにしても、この男児が最初に「雄たけび」を始めた理由は、一体何なんだろうか?やはり、DNAが成せる技なのだろうか?そして、それを放置、もしくは容認、もしくは奨励しているからこそ、男児にこのはた迷惑な行動が習慣となって身に付いたはずなのだ。 そう言えば、家の猫達も、確かに男子チームの方が、やたらニャーニャー暴れて煩い。男子幼児とニャンコに、行動の類似を見た。これをソシアルラーニングセオリーに結びつけ、何か論文でも書けないか考えてヒマを潰す。カナダで研究と仕事を頑張っているKと、久しぶりに夜通しこういう話をしたいなあと、しみじみ思う。 

あちらの大学にいる時には、毎日こういうどうでもいい思考を繰り返して、たまに論文書いたりしていた。理論でも仮説でも、ムダな思考が山ほどあって、その中からエキスの部分を抽出して、ようやく形のあるモノになる。ムダがないといいアイデアは生まれない。学問とは、本来贅沢なモノなのだ、とカナダで世話になった先生が言っていた。そう。日常に忙殺されてしまって、どうでもいい事をダラダラと考える余裕がないと、良い物は生み出せない。日本に帰って来てからは、脳が疲れる程に思考する必要性もなく、何より、毎日そんなゆとりもなく、脳のシワが減ったような気がしている。会社での社会人は「脳」を使うというより、仕事を円滑に進めるために「気」を使い、それで疲れ果てて一杯一杯になる感じがする。使う部分が全く違う。

で、エコー検査は若い女性技師さんがやってくれた。昔はこういう検査のゼリーが冷たくて嫌だったのだが、人肌程度に温められていて感動した。日本の医療も、ペイシェント・フレンドリーになってきているのだ。内臓のエコーは、以前、家族全員が隣の医院で検査してもらっているので恐怖感もない。しかし、新鮮さもなかった。父方の祖母は、80の時に、それで胆石だか何かが見つかって、この同じ病院で手術した。まず、手術に持たないだろう。しかも、その後ボケるだろうとか寝たきりになるだろうと誰もが思い、手術も積極的に勧められなかったが、祖母は望んだ。そして手術後、介護していた母を病人化させるほどこき使って、自分は不死身人間のように復活し、それから90近くになって老衰でぽっくり死ぬまで元気だった。私はその祖母に一番体質が似ていた。胸が大きいところも、祖母似だ。だから、祖母のように健康で大往生な人生を送るのだろうと確信していた。しかし、不確かで不安な老後に、少々ウンザリしていた事も確かだ。自分だけ元気で、家族や友達、皆が先に逝ってしまう。一番最後に残されるのは嫌だと思っていた。

薄暗い検査室のエコー画面に、胸の中の大きな塊が映し出されていた。そこで止めて何か拡大したり、焦点を合わせたり(?)、撮影したりしている。何もない右は簡単にスルーされたが、塊しかない左は時間がかかった。こういう専門家は、今までにたくさんの患者を診ているだろう。「それってガンですか?」と尋ねたくなったが、困らせるだけだと思ったので、止めといた。

次はマンモグラフィー。これは初めてだったので、新鮮だった。昔、会社の先輩が、「胸をギュッと潰されてすごく痛かった」と言っていたのを思い出した。プラスティックの抑え板が上下から胸を平たく潰す。機械が倒れ、左右からも同じように、脇の肉も挟み込むようにして撮影される。何ともない右は、ぺちゃんこにされても全然平気なのだが、しこりで張っている左は痛かった。

そして、ここでも、「これって、本当にガンなのでしょうか?」と、また尋ねたくなったが、止めておく。自分でも、たぶんガンなのだろうと、もう確信していた。

いつも、「起こり得る最悪&最低の事」という事態をシミュレーションするようにしている。要するに、今回の場合は、もちろん「100%ガン」で、胸は全部取られると仮定した。そして、抗がん剤や放射線治療で頭は「ハゲ」に。体は痩せていかにも「病人」に。 もしくは何かの副作用で「デブ」に。それから、手術で開いてみたが全身転移の手遅れで、そのまま閉じられて、結局痛いのだけ損してベッドの上で死ぬ。…ああ、要するに、もう終わってる、と。そして、それから、それよりややマシな状況を考えていく。そうすれば、本当に最低&最悪の状況が起きた時に、もう準備ができているので、それほどショックはない。

検査が午後一杯かかったので、その日は、結局仕事を休む。

ガンについての不勉強さを恥じ、インターネットで調べようかとも思ったが、何だか疲労感が甚だしかったので、ふて腐れて早寝する。


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2004年01月01日

術前検査結果@O病院

ステージ3a
クラス:V
サイズ:15cm X 5cm~(大きすぎてノギスで測定不可)
ER & PgR:中等度陽性(50%以上~75%未満)
HER2:スコア1(少ない)
p53癌抑制遺伝子産物:弱陽性(1%以上~25%未満)


nekome1999 at 01:01コメント(0)トラックバック(0)検査&病理結果治療メモ(初発) 

2003年12月31日

告知に至る道:プロローグ

ゴムマリ胸の悲劇

「男は女の胸が好き」…これは経験から得た真実だ。 

しかし、その反対はどうかと思う。女の象徴である胸の谷間にうっとりと顔を埋めたい男の数ほど、男の象徴である股間にうっとりと顔を埋めたい女はいない。女性の胸を触ってみたいと思う男性ほど、男性の股間を触ってみたいと思う女性はいない。痴漢と痴女の数は比べる必要すらない。

男性にとって女性の魅力の象徴は単純に胸やお尻しかないのだが、女性にとって男性の象徴は、経済力であったり社会的ステイタスだったりもするからだろう。お金や偉い人が大好きな女性は多い。

男女はかように違う。全く別のイキモノなのだ。 誰かも書いていたが、男が火星から来たマーズだとすると、女は水星から来たビーナスなのだ。これが私のスタンスだった。(どうでもいい)

さて、私の胸は非常に弾力性があり、巨大なゴムまりのようだった。そして、その胸が、生理に合わせ、全体が硬くなって痛くなったり、形が変わったり、大きくなったり、小さくなったりするのは、思春期以降いつもの事だった。プラス、デカ乳女は誰でも経験あると思うのだが、ブラなしで走ったりすると胸が攣れて痛くなったり、重いためにやたら肩こったりするのも日常茶飯だった。胸が目立つのが嫌で、つい猫背になってしまう傾向もある。デカ胸は武器にもなるが、このように困った事もたくさんあるので、プラマイゼロだ。しかも、デカ胸女は「物理的に胸が痛む」に慣れているため、胸の痛みに鈍感になる傾向があるかもしれない。気をつけるべきだ。

さて、そんなゴムマリ胸に変化が生じたのは、1999年頃、まだカナダにいた頃だった。右乳は、ゴムマリからタヨ~ンとした柔らかい胸に変化した。しかし、左乳は乳首を中心に以前と同じように巨大なドーナツのようなゴムマリ状態のまま。しかし、生理の周期に合わせて張ったり痛んだりするのは、両方とも以前の通り。 要するに左は昔のままで、右だけが老化して柔らかい水っぽい乳房になってしまったのでは? 老化か…。参ったな。デカ胸は垂れ易いから、胸筋を鍛えねば…などと考えていた。

大学校内にクリニックがあった。かなり本格的なクリニックで、常時数人の総合医がおり、地元に主治医のいない教職員や学生はまずそこで診察を受け、必要であれば専門医に引き継がれる仕組みだ。自分がどこが悪いのかかなり明確に判っていても、最初から「専門医」に診てはもらえない。当時、婦人科検診(子宮)などもそこでやってもらっていた。子宮検診は30歳過ぎたら毎年やるべきだと非常に熱心に行っていた。 全然痛みもなく、非常に上手でもあった。クスコはプラスティックの使い捨てだった。

その時、ついでに乳の方も気になって触診してもらった。しかし総合医は、左右の硬さが余りに違うのに驚きはしたが、「全体が同じように硬い」という乳の状態を触診し、「家族にガン患者はいるか?」「コーヒーを日常的に飲んでいるか?」「タバコを吸っているか?」と尋ね、私がすべてを否定すると、「まだ若いし、これ(触診)以上の検査は勧めない」「乳ガンは、普通は痛まない」「アジア人は乳ガンになりにくい」などと言われ、専門医には紹介してもらえなかった。 

さて、ここにカナダ医療の欠点がある。外国人でさえ、非常に安い保険料で医療費は基本的にタダという素晴らしい環境だ(薬はタダではない)。しかしながら、勿論、州によって異なるが、私のいた州では、専門医に引き継がれるまでに、非常に時間と手間がかかった。

それより以前に、腹部の痛みを訴えた時も、総合医が何度も色々な薬を出し、それらすべて試させられ、結局どれも効果がないと判った時点で、ようやく専門医への紹介を検討し始めた。 「以前、日本で十二指腸潰瘍をやった事があり、それは完治したが、また出たのかもしれないので、胃カメラで診て欲しい」としつこく訴えて、やっと専門医に引き継いでくれた。しかし、専門医の予約を取れたのはその数ヶ月後。胃カメラの予約ができたのも、かなり後になってからだった。ちなみに、日本でよくやるバリウム検査は、体に良くないからやらない、と断言された。 

具合が悪くなったのに、半年後にしか取れなかった専門医の診察を待って、手遅れになって亡くなってしまった人がいる、という噂が現地では結構あったが、100%ウソではないと思った。 しかも、ナースや救急車、そして病院までもがストをして、救急医療がパンクした、などという日本では有り得ない事態になっていたのも目撃した。生命を守る、それこそ「ライフ・インフラ」の業務に携わる人々の労働条件を向上するのは確かに大事だが、そのような職種に「ストをする権利」を認めるのはどういうものだろうか?と、しみじみ考えたものだった。


我が家は健康で、死因は老衰がほとんどだからと気楽に構えていた。唯一、病気経験は父で、若い頃の結核。そして、不潔な注射針使用の予防接種か何かのせいのC型肝炎。しかし、これを遊びすぎの不摂生で「肝硬変」にした後、医師に「ガンになる恐れもあり、命はあと数年」といわれ続けてもガン化せず10年以上経過していた。しかも、甘い物の食べすぎで糖尿病になり、失明するだの足が壊死するだの言われ続けて10年近く元気で、肝性脳症になっても元気に復活し、普通に暮らしていた。そんな元気な家系の自分は健康その物だ。今では、タバコも止めており、累積喫煙年数も10年に満たない。お酒も月に数回嗜む程度。 食生活は無農薬の野菜とマメ製品が中心。運動も定期的にしている。サプリメントもバッチリ。空気の綺麗な山暮らし。学期初めと末は色々と忙しいが、週に2,3回の講義しかない暢気な仕事。これで、一体どうやって病気になる? 十二指腸潰瘍も治ったし、私も老衰一直線に決まっている。では、どうやって、どこで長い老後を過ごそうか? 日本だと、お金ないと辛いかしら? じゃあ、老後はカナダか? …と、考えはそちらのベクトルだった。勿論、ガン保険などにも入っていなかった。

それからしばらくして、同じクリニックで再度、別の先生(北欧移民の綺麗な金髪女医さん)に何かのついでに触診してもらったが、やはり「左右が余りに違うのは変だが、感触的に悪い物ではないようだから、検査は勧めない」と言われた。まあ、この時点では、本当にガンではなかったかもしれないのだが、心配だから検査をお願いしたいと熱心に頼めば、何とかしてくれたかもしれない。 …そう、半年後とかに。


そして、2001年の暮れ、帰国した。
以降は、父の介護のために毎日病院に通い、仕事もフルタイムでできないし、出かけられないし、父の事業や借金を片付けねばならず、それに伴った経済的問題も発生して、ほとほと疲れて非常にストレス過多な日々ではあった。シコリのガン化に「ストレス」が関係しているのなら、おそらくこの期間だろう。

実家の隣に内科がある。地元で長くやっている先生で、我が家は先生を信頼して、全員がかかっていた。10年以上前に肝硬変で余命数年と言われた父がまだ元気なのも、この先生のお陰だった。私もカナダに行く前は、毎年、バリウム、胃カメラ、レントゲン。4ヶ月に一度血液検査などをきちんと受けていた。何度か胃炎や十二指腸潰瘍にもなったが、都度、先生にお薬で完治してもらっていた。しかし、帰国後は何でも父が優先で、自分の事どころではなく、全く診てもらっていなかった。

兆候はいつから顕著になったのかと、2003年の手帳を見てみると、生理日が1月17日。非常に正確な約28日周期で次が2月13日。そこに1月26日と30日に胸が痛いマークが付いている。それが「胸が痛いマーク」の付け始めだった。以降、毎月付いている。5月には、生理後の一週間5日連続で「痛いマーク」が付いていた。この頃か、もう少したってから、お隣の先生に触診してもらった記憶がある。やはり「左右お方さが余りに違うので変だ」と言われたが、左胸全体が同じように張りがあり「しこり」のような区別がなかったため、「経過を注意して見ましょう」と言われ、痛み止めを貰った。昔からある痛みが酷くなったのだ程度に、自分も考えていた。その頃、ようやく父をリハビリ施設に入所させる事ができ、仕事のペースが戻った。月の残業150時間などという時もあったが、とても楽しんでやっていた。

10~11月になると、思わず呻いてしまうほど胸は痛くなってきた。おまけに、太股の上の方に、奇妙な「湿疹」ができて、いつまでもジクジクと治らなかった。 背中にもブツブツ出てきた。今考えると、全身の抵抗力が弱っていたのかもしれないが、「皮膚の老化かな?」と思っていた。 この頃、ベッドに横になると眩暈がするという不思議な現象も起きていた。目を瞑るt、星のような物がちらつき、周りがグルグル回る。しかし、特に日常生活に支障がないので、気にしなかった。

「私はガンの家系じゃない」「タバコも止めた。お酒も習慣的に飲まない」「乳がんは痛くない」「サプリメント摂ってる」「青汁や緑茶を飲んでる」「栄養のバランスいい食事をしている」「大豆も海草もキノコもよく食べてる」…と、そんな自分がガンになるとは1%すら思っていなかったので、当然、検査の必要性も感じなかった。ガン保険なんか、全く入ろうとも思ってなかった。


病院に行かねばと思ったのは、2003年の暮れだった。左乳首が陥没し、乳房の形が上部に攣れて奇妙に変形してきた。 その上、生理が終わってから痛い…のではなくて、まだ生理中だったのに、もう周期に関係なく胸は痛むようになってきていた。 その頃、左胸は上部半分を除いて、右のように柔らかくなってた。以前は全体が硬かったのに、上部だけが硬く残ってしまったという感じだった。それでも、まだ「ガン家系じゃない」「乳がんは痛くない」とか「もし、これがガンだったら、こんなに大きくて、そしてこんなに何年もここにあったなら、自分はとっくに死んでいる」と、考えていた。


年末からひいた風邪は、中々治らなかった。私にしては珍しく、丸3日、発熱もした。 熱は下がっても微熱が続いた。いつまでも鼻が出て、ズルズルしていた。ここ数年、風邪など引いたことがなかったので、そちらを治す事が気になって、胸はどうでも良くなってきた。

1月13日、社内マッサージで指圧してもらった時、左の肩に洒落にならない痛みを感じた。表面的ではなく深部から疼くような形容し難い、しかも息が詰まるような痛みだった。さすがに「ナニ?」と思わざるを得なかった。 「これは単なる肩こりじゃない。もしかして、乳の方から来ているのかも? だったら、乳は相当悪いな」…で、職場に近い婦人科が友達に評判が良かったので、その日に診てもらおうとした。しかし、そちらは婦人科で「子宮関連」なので、乳房は乳房の専門医に行ったほうがいいと助言され、「そうか、乳房専門のお医者がいるのか」と初めて知った。 『無知の知』。

しかし、翌朝、結局、長年お世話になっている隣の先生のドアを叩いた。自分の既往症もすべて把握している先生がいいだろうと思ったからだ。それも、偶然、地下鉄に乗り遅れてしまったので、「あ、遅れるならついでに、診てもらおう」などと思いついた結果だった。 それがなければ、まだ痛みを抱えてグズグズしていたに違いない。でも、そのグズグズしている間は、今日の続きで未来の扉を開ける事ばかりを考え、それは幸せだったろう。


すべての物事は、当人が認識した瞬間に「事象」として存在し始める。 

…まさにそういう事だ。
私のガンは、私にとっては、ガンと宣告されるまで存在しなかった。


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